Rider's Story
バイク短編小説を書き上げる毎に差し替えて公開します。
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ホワイトダックスの頃
作 武田宗徳
私はカー用品店でオイル交換が終わるのを待っていた。
自分のクルマがまだピットにあるのを確認して、再び待合スペースに入ろうとしたとき、視線の先にオートバイが並んでいるのが見えた。引き寄せられるように視線の先へ向かっていた。
懐かしいバイクがあった。だがそれは私の中にある記憶よりひと回り大きかった。
ー DAX125 ー
現行車で新車で販売しているのだと店員が言った。形はあの頃のDAXと同じだ。大きくなってはいるが当時を思い起こさせる。しばらく立ち止まって眺めていた。
私がDAXに乗っていたのは今から四十年以上前のことだ。寮で生活しながら長野県の大学に通っていた。寮の管理人さんが花柄シートの”ホワイトダックス”を譲ってくれたのだ。気に入っていて毎日のように乗っていた。それに乗って実家のある静岡まで帰ってきたこともあった。
あれは大学二年、1977年のことだ。10月だったかそれとも11月に入っていただろうか。松本市の夜はもう寒さがこたえる時期だった。下宿先の寮に一本の電話が入った。電話が来ること自体珍しいのに、なんと高校時代の同級生からだった。
「今松本駅にいるんだけど、京都まで帰れなくなって……」
と言った。
その同級生は京都の大学に通っている。この土日松本市内を観光して、夜になって帰ろうとしたところ今から電車に乗っても京都まで辿り着かないとわかったという。松本に同級生がいることを思い出して電話してしまったというのだ。
彼女は高校三年のときに同じクラスだった。たいして親しい間柄ではなかったし、もちろん恋人でもなかった。たまに話をするくらいで、学校の外で会うこともなかった。だけど卒業式の直後、数人と連絡先の交換をしたメンバーの中に彼女がいた。
とにかく駅まで行ってみることにした。だが行ったところで解決するようにも思えなかった。
夜の九時を過ぎていた。彼女はいた。ひとりだった。
私のDAX70を見て「何それカワイイやん」と言った。すっかり関西訛りが移っている。「座るところ花柄なの!?」笑ってそんなセリフを言う。さっきの電話で感じた切羽詰まった雰囲気はなかった。垢抜けていて、だけどのんびりとした落ち着いた雰囲気も感じた。もはや私の記憶の中の、あの高校時代の同級生ではなかった。
ずいぶんときれいな大人の女性になっていたのだ。
あのとき私は「京都まで二人乗りで行こう」と言った。そう言ってしまった。
京都までの距離も、夜の峠の寒さも、彼女の思惑も、何も考えもせず……。
どれだけの時間が経っただろうか。現行のDAX125を前に、しばらく昔の思い出に耽っていた。
「何これ、カワイイやん!」
後ろから声が聞こえた。まさかと思い振り返ってみたが、そんなわけがなかった。知らない中年の女性が目を細めてDAX125を見ていた。
「カワイイ、ですか?」
つい声をかけてしまった。DAXをそんな風に言ってくれて嬉しくなってしまったのだ。
「はい、白いのがあったら買ってしまいたいくらい」
そう言って女性は肩をすくめた。そして「花柄シートの」と続けた。
「ご存じなんですか?ホワイトダックス」
私は驚きと嬉しさで、つい聞いてしまった。
「若い頃、松本から京都まで白いDAXの後ろに乗せてもらったことがあります」
ハッとして私は彼女を見た。彼女も私を見た。
「でも結局、中津川まで、だった……」
そう私が言うと、彼女は少し目を見開き、やがて落ち着いて穏やかな表情になって言った。
「そう。あのときはホッとしたような、でも……」
松本から二人でDAX70で走り出してしばらく経ったとき、彼女は「明日大学の一限がある」と言った。中津川が近づいてきた頃には、日が変わろうとしていた。疲労と寒さで私たちは限界だった。このまま京都まで走るのは無理だと思った。
中津川から始発の京都行きに乗れば、一限の授業に間に合うはずだった。だから私は、彼女を中津川の安宿に泊まらせ、自分はDAX70で松本へ戻った。
その後、私たちは連絡を取り合うことのないまま、40年以上が経過した。
あのとき私は、一体どうしたらよかったのだろう。
「大学二年の月曜、一限あった?」
唐突に、彼女はそんな質問してきた。私は少し考えていた。確かにあのとき『自分も明日一限があるから』と言って急いで帰った。だけど本当は月曜日の授業は午後からだった。急いで帰る必要はなかったのだ。彼女の質問を聞いて自分も疑問がわいた。
「君は?大学二年の月曜、一限あったの?」
彼女はニヤリと笑みをみせた。そして視線を右上の方へわざとらしく向け、口の端から舌を小さくペロッと出したのだった。
おわり
バイク小説短編集 Rider's Story シリーズ第3弾「アクセルは、ゆるめない」は、クラウドファンディングによる多くの方のご支援によって出版を可能にした著作でございます。
上記の短編小説はそのリターン(返礼品)として設定した「オリジナル小説」です。
こちらをご支援に選んで頂いたモデルの方の御了承を得まして公開致します。
あくまでも脚色されたフィクション作品(架空の物語)と思って読んでいただけたらと思います。
彼のセカンドオートバイ
作 武田宗徳
ランボルギーニ、ポルシェ、フェラーリ……。
少年はスーパーカーが好きだった。手の届かない憧れのスーパーマシンを遠くから眺めていた。そんなスーパーカーを見るのと同じような眼差しで眺めていたオートバイがあった。
ー MVアグスタ F4 ー
紛れもないスーパーマシン。彼にとってスーパーカーと同じように憧れで終わるはずのオートバイだった。
二輪の免許を取らないまま20代を過ごした。だが30になる年に、彼は自動二輪大型免許を取得し、その年の終わりにMVアグスタ F3を手に入れた。
仕事と妻と子どもと、家とガレージとクルマと、そしてオートバイ。それもMVアグスタだ。
『これ以上、何を望むというのだろう』彼はそう思った。
日曜日の朝、オートバイに乗るときも乗らないときも、彼は自宅のガレージを開ける。シャッターを開ける直前にいつも感じることがある。まだ見えていないのに、この中からスーパーマシンのオーラが伝わってくるのだ。
至福のひとときだった。
自分のガレージにMVアグスタがある。その事実だけで彼を十分に満たしていた。
タイミングが良ければ走りに出た。早朝からお昼にかけて山や海を走り回った。少しの雨にも降られたくないから天候の動きには常に気をつけていた。だから実際に、走りに出る機会は一年を通して数回しかなかった。
そうして10年が経ち、彼は40代になった。オートバイは三度乗り換えたが、すべてMVアグスタだった。
『自分のオートバイ歴はMVアグスタに始まりMVアグスタに終わる』
当たり前のようにそう思っていた。
「これなんだけど」
ある日彼は呼び出されて、友人の自宅に来ていた。友人の差した指の先には薄汚れた50ccのオートバイがあった。軒下ではあるが雨が降り込んでいたのだろう、埃をかぶりサビも浮いていた。
ー ヤマハYBー1 ー
90年代にヤマハから発売された、ビジネスバイクをスポーツバイクのように施したミッション式の原付だ。動かない状態だという。
「もらって欲しいんだ」
友人はそう言った。2ストロークのミッション式50cc。今となっては高値がついているはずだった。
「いや、やめておくよ」
と、彼は断った。趣味ではなかったのだ。友人は続けた。
「お前んとこなら、どこかに置いておけるだろう?」
「そうじゃなくて…。悪いけどあまり興味が持てないんだ」
そのあと二人は近所にある喫茶店に行って他愛のない話をして過ごした。
友人は不動となったYBー1をどこかのショップに売りに行くことはなかった。頑なに、無償で彼に譲ろうとした。その後一年の間に友人は何度か「もらってくれ」と彼に頼んだ。
友人の熱意のようなものに、彼は根負けした。
40代も半ばに差し掛かっていた。
季節は春。彼は、カブ乗りの集まるオートバイのイベントにYBー1で参加していた。
「にいちゃん、赤トンボか!」
「遠くからよく来たね」
たくさんの原付乗りに声を掛けられた。それは何もイベント会場だけではなかった。道の駅やコンビニ、自動販売機の脇に停めた時でさえも、たびたび声を掛けられた。ライダーにはもちろん、近所に住んでいそうなおじさんやおばさんにもよく声を掛けられたのだ。
MVアグスタで走っているときには、あまりないことだった。
「峠を二つ越えて田舎道を走ってきました」
彼は笑って応えた。
「自分がバイクをいじるなんて考えたこともなかったんです」
友人から譲り受けたYBー1を自分で直した。彼は、バイクの整備に関しては全くの素人だったが、調べたり教わったりして見よう見まねでなんとか動くまで仕上げた。他にも手を加えたいところが次から次へと出てくる。完成するまで時間がかかりそうだった。 『いや、もしかしたら永遠に完成しないのでは』と、彼は思った。
50キロくらいの距離ならYBー1で走った。帰りに雨に降られることもよくあった。多少の雨なら気にしなかった。MVアグスタにも乗るが、今はYB−1の方がたくさん乗っている。
彼は、今までと違うオートバイの楽しみ方を知った。
このYBー1は友人が10代から乗っていたオートバイだと、彼は知っていた。友人にとって思い入れのあるオートバイに違いなかった。買い取り業者に売ってどこか知らない人に渡るより、知っている誰かに乗っていて欲しかったのだろう、と彼は思った。 きっと目の届く場所にYBー1があるようにしておきたかったのだ、と。
友人は結婚した。「バイクにはもう乗らない」と言った。彼は信じなかった。なぜなら自分のことがあったからだ。MVアグスタ以外のオートバイに乗るつもりなんてなかったのに、今はMVアグスタではない別のオートバイの魅力にすっかりハマってしまっている。
最新の大排気量スーパーマシンと旧式の小排気量ビジネスバイク。まったくと言っても良いくらい正反対のオートバイを共に楽しんでいる。
月曜日の朝。
彼は、出張で他県の取引先に向かうため駅のホームで新幹線を待つ列に並んでいた。
ふと、ガレージのMVアグスタとその隣にYB-1が並んでいる姿を思い出した。
新幹線のホームで一人「フフッ」と吹き出した。
おわり
バイク小説短編集 Rider's Story シリーズ第3弾「アクセルは、ゆるめない」は、クラウドファンディングによる多くの方のご支援によって出版を可能にした著作でございます。
上記の短編小説はそのリターン(返礼品)として設定した「オリジナル小説」です。
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あくまでも脚色されたフィクション作品(架空の物語)と思って読んでいただけたらと思います。
息子とテニスとレーサーレプリカ
作 武田宗徳
一人息子が大学生になった。今年の春から通っている。ありがたいことに、自宅から通える大学に現役で合格してくれた。
「テニス部に入ろうかな」
五月の連休に入る前だ。家族で夕飯を食べている時、ダイニングテーブルの向かいの息子は確かにそう言った。中学時代はソフトテニス部で、高校に入っても部活動はテニスをやっていた。大した成績を残した訳でもなかったし、私から見たら楽しそうにも見えなかった。大学には他にもっと珍しい部活や面白そうなサークルがたくさんある。自由に選べるというのに、彼は中・高と続けてきたテニスを大学生になってもやるという。彼なりにテニスを楽しんでいたのだろうか。
「まあ、テニスは大人になってもできるしな」
私は思いついたセリフを口にした。
「お父さんもやったらいいのに。学生の頃やってたんでしょ」
息子にそう言われて思い出した。彼が中学生になったときも、私は同じセリフを言った。部活選びに迷っていた彼に「自分はテニスをやっていた」「大人になってもできる」と言ったのだ。しかし今現在大人になった私は、できるはずのテニスをやっているわけではなかった。
と次の瞬間、予想もしていなかったセリフが息子の口から出た。
「一緒にやろうよ」
こうして何故だかひと月に一度、息子とテニスをすることになった。週末に予約したテニスコートで一時間と少し二人で打ち合うのだ。社会人になったばかりの頃、数度だけ思い出したように仲間と打ち合っていたことがあるが、それ以降はもう十年以上やっていない。体を動かすこと自体が久しぶりだった。いいものだな、と思った。
息子とテニスなんて、もちろん初めてだが、彼のテニスをしている姿を見ることも初めてだった。試合を見に行くことも過去に一度もなかった。
さすが現役だ。私が動かなくても打ち返せる場所にボールを返してくれる。私の打ち返すボールはあちこちに飛んでしまうが、息子は軽く走って難なく打ち返してくる。私の足元に。
仕事はそれなりに忙しいのだがテニスの日は可能な限り予定を空けるようにした。いつしか私は、ひと月に一度のテニスの日に合わせて仕事の段取りをするようになっていた。
充実していた。仕事も調子がよかった。何かを始めるということは、なんてエキサイティングで、なんてワクワクするのものなんだろう。こんな気持ちを五十になろうとしている私が感じられるなんて。すっかり忘れていた気持ちだった。
少しの間、意識を失っていたのだと思う。気がついたら歩道にうずくまっていた。確か今は仕事中で、最寄りの駅から歩いて取引先に向かっていたはずだった。胸が苦しくて、冷や汗が出る。
大丈夫ですか? と、知らない女性に声を掛けられている。大丈夫ですよ…と答えているつもりだった。人が集まってきている感じがする。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
真っ白い天井と真っ白に照らす直管蛍光灯をじっと見ていた。
私は病院にいた。静脈血栓塞栓症。エコノミークラス症候群というやつを患ってしまったらしい。仕事で飛行機や電車の移動も少しはあった。脱水症状を引き起こしていたというのも、心当たりが無いわけではなかった。以前よりビールを飲む量が増えていた。
いつまで生きられるかわからない状態だと、医者は言った。
テニスをやるようになって気持ちも体も調子が良くなったと思っていた。そんな矢先の、思いもしていなかった出来事に、いろんなことへのやる気が失せてしまった。落ち込み、悩んで、考え、また落ち込んだ。様子を見ながら仕事にも復帰したが、テニスはやめてしまった。激しい運動はしないように、と医者からも言われていた。
息子はテニスを続けた。大学を卒業して社会人になっても続けた。市民大会などに出場するようになった。いつの間にか市民大会で上位に残るような社会人テニスプレイヤーになっていた。
あれから五年。息子は二十四歳になり、私は五十四歳になった。ありがたいことに近年の医療技術の進歩の恩恵を受けて、今も私はとても元気だった。
日曜日の昼下がり、息子は自宅の居間のソファでラケットにグリップテープを巻き直していた。そんな姿を視線の端に映しながら、私は居間の端にある畳敷のスペースで新聞を広げていた。私は顔を上げて、息子に言った。
「お前、本当にテニスが好きなんだな」
グリップを巻いている息子は視線を向けずに「ん」とだけ返事をした。
「こんなに続くと思ってなかったよ」
息子は視線を向けずに、小さな声でハハハと笑った。
「今度の大会、優勝するんじゃないか」
黙々とグリップにテープを巻いている。
「…続けるって、すごいよな」
息子に向けた言葉だが、自分に向けた言葉だったのかもしれない。私はこれを十五年かけて息子に教えてもらった。
独身の頃、夢中になっていたものがある。息子が生まれたのをきっかけにやめてしまった。いや、やめたつもりはなかった。休んでいただけだ。気持ちは今も続いている。
思い立って外へ出た。庭の小屋の扉を開けた。中に保管しているオートバイのカバーを外した。
RVF400
独身の頃、毎年夏になると関東から鈴鹿へ向けて仲間と連ねて走った。気分はワークスレーサーだった。乗らなくなって二十五年。どうしても手放せず、大切に保管していた。
「お父さん、乗るの?」
居間の窓から息子が顔を出してこちらを見ていた。「いや…」と困ったフリをして考えていると、息子の隣で妻も顔を出した。目が合った。
「乗りたいの?」
そう口にした妻の表情は穏やかだった。返す言葉をすぐに思いつけなかった。病気のこともある。これ以上、妻や家族に心配事を増やすわけにはいかなかった。だが一方で、自分の好きなことをしたいという気持ちも強くなっていた。
いつ尽きるかわからない命が、二つの相反する気持ちを葛藤させていた。
もう一度、妻を見た。穏やかな表情でこちらを見ている。
そして、ゆっくりと二回頷いた。
私は今、箱根大観山から富士山を見ている。今日はすっきりと晴れ渡っていて、富士山がきれいに見える。傍には三十年来の相棒RVF400がいる。「懐かしいなあ。いいですねえ」中年男性によく声を掛けられる。一人で走ってきたのに、ここに来ると同じようなライダーと会話が始まる。バイク談義で盛り上がってしまうこともよくある。
いいよ、オートバイは。
私は、エキサイティングな気持ちを再び感じていた。
バイクに乗っていなかった時期は長かったが、バイク乗りの気持ちまで無くしたつもりはなかった。心の中では三十年間ずっとバイク乗りだった。
RVFのシートの上に手を置いた。
こいつがいれば、他に何もいらない。
そう思えるくらい、相棒は私の多くを満たしてくれた。
ずっとバイク乗りでいたい。
携帯電話の通知音が鳴った。息子からのメッセージだ。試合の結果だろうか。未開封のままポケットにねじ込んだ。相棒に跨り、V型4気筒に火を入れた。スロットルを一捻りして、私は箱根大観山をあとにした。
何度も走ったターンパイクを、懐かしくも新鮮な気持ちで駆け降りていった。
おわり
バイク小説短編集 Rider's Story シリーズ第3弾「アクセルは、ゆるめない」は、クラウドファンディングによる多くの方のご支援で出版を可能にした著作でございます。
上記の短編小説はそのリターン(返礼品)として設定した「オリジナル小説」です。
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あくまでも脚色されたフィクション作品(架空の物語)と思って読んでいただけたらと思います。